グレッグ美鈴
査読を頼まれることは多く、基本的に断らないことにしているので、「あー、また査読だ」と思ったりする。そして不思議なことに、忙しい時に限って査読が重なる。職場で読めなくて自宅に持ち帰り、自宅で読めなくて職場に持って行くを繰り返して、完成するまで気が重い。そういうときは、「筆者、査読者、編集者が協働して、より良い論文を出版する」という査読本来の目的に立ち返り、私自身が学ぶ機会でもあると思って、前向きな気分に切り替えるようにしている。実際に、何も学びがなかった査読はない。
依頼される査読は、ほぼ全て質的研究である。査読のときに私自身が気をつけようと思っていることは、「研究方法論あるいは研究方法にこだわり過ぎないこと」である。博士前期・後期課程で質的研究の授業を担当し、学位論文指導や審査に携わって15年以上になる。その経験が私を「研究方法論あるいは研究方法にこだわる人」にしていると思う。質的研究法の授業や学位論文指導あるいは審査の中では、本サイトのガイドラインに掲載されている「看護学の知識体系を構築するための質的研究方法を用いた学位論文指導プログラムの作成リーフレット」の論文評価基準項目の研究方法に関連する部分をとても大切にしている。具体的には、論文評価基準項目の「5.研究方法の選択理由・適切性が明確である」、「9.研究方法を十分に理解し、適切に使っている」、「11.結果の厳密性を確保する方法が書かれている」である。これらを大学院生には、十分に理解してもらいたいと思って指導している。しかし投稿論文の査読をするときには、当然ながら文字数制限もあるので、学位論文審査評価基準の内容をどこまで記述されていれば良しとするのかは、慎重に判断したいと思っている。
論文の最初から読むので、当然「研究方法」が先に来て、「結果」を後から読むので、「研究方法」がわかりにくいと論文全体がわかりにくいと思ってしまう。こういう時は、「研究方法」は横に置いて、結果の記述を読むことに集中するようにしている。この部分は、学位論文指導や審査と大きく異なる。
研究方法論あるいは研究方法自体が明確になっていることはもちろん大切ではあるが、これに不十分さを感じたからと言って、論文自体を低く評価するのは望ましくないと思っている。では、研究方法を横に置いて、結果の何に着目するのかというと、前述のリーフレットの中の「10.質のよいデータが収集されている」、「13.結果がデータで支持されている」、「14.新たな知識を生み出している」の3点である。
論文の結果を読んだ際に、「あぁ、なるほど」と思える引用は、データのリアリティが高く、研究しようとしている現象をうまく表していると言える。自分の専門領域と100%一致するような論文の査読は殆どないが、自分の専門領域ではなくても、質の良いデータかどうかの判断は十分に可能である。
結果あるいは考察が新たな知識を生み出している論文であっても、研究方法が明確に書かれて、結果の厳密性が確保されている必要性は当然あるが、逆に研究方法や結果の厳密性が明確であっても、結果がおもしろくなければ意味がない。質的研究は「新しい」が命である。しかし新規性と言っても、全てが新しいことはあり得ない。結果における新しさは、研究している現象に新たな視点を提供しているか、その視点にオリジナリティがあるかと言ったことだと思う。
一旦、査読コメントを書き終えたら、この論文から何を学んだかをもう一度振り返るようにしている。とても主観的な査読になっていると思われるかもしれないが、「研究方法論あるいは研究方法自体にこだわり過ぎない」ことを意識するために、結果からの学びを振り返ることが、私にとってはとても重要だと思っている。
研究方法については、質的研究法のテキストに掲載されているようなものだけにこだわらず、看護に関わる現象を明らかにできる新たな方法が採用されていくと良いと思う。20数年前の学生時代、インタビューのデータをポエムで表す授業を受けたり、研究結果を踊って表す話を聞いたりした。そこまで飛躍しなくても良いと思うが、研究結果に着目しながら、クリエイティブな研究方法を受け入れられる査読者でありたいと思っている。