西村ユミ
私は博士課程で、植物状態患者に携わる看護師の経験を開示するために、メルロ=ポンティを手がかりとした現象学的研究に取り組みました。その後縁あって、メルロ=ポンティを専門とする哲学者に共同研究を提案され、その成果として、『現象学的看護研究――理論と実践』という書籍の出版に至りました。
しかし当初、研究方法に関する本を書くことに抵抗があり、何度も相談をして出版を決心したという経緯があります。その理由は、現象学における方法は、予め定められているのではなく、探究しようとする事象との接触において初めて見えてくる、その接触において吟味される、言い換えると「事象の方が方法を強いてくる」とされているため、現象学的方法を書籍にまとめることは、現象学の考え方に反するのではないか、と考えたためです。
他方で、共同研究に誘って下さった哲学者は、手続きではなく、現象学的研究を進めていく筋道を示すことが必要ではないか、と言われました。そして、それを実現するために、複数の哲学者、看護学者で議論する共同研究を提案されたのです。この書籍は、一つの方法を示すのではなく、方法に関する理論的な議論、これまでに紹介された多様な方法、そして、私が行った方法の例を具体的に示す等、多様な理論的、実践的側面を示すことで、読者が探究しようとしている事象をもとに方法を考えられるようにしました。
この『現象学的看護研究』は、直接哲学を手がかりにして、既存の方法も参照しつつ、事象に即して方法を吟味することを示したものになります。そのため、それぞれの論文の研究方法に「現象学的看護研究」と記載しても、多様なスタイルで方法が論じられる可能性があります。そのような方法による研究が、学会誌等の査読を受けてアクセプトされるのは至難の業であると思いました。そのため、まず、このようなスタイルの研究があることを知ってもらう必要があると考え、雑誌の特集で紹介をしてもらったり、学会でのシンポジウムや講演などで、この方法について、機会あるごとに紹介をしました。
ちょうどその頃から、大学院生が現象学的研究を投稿して、査読をクリアーしていきました。ホッとしたのを憶えていますが、当初は、現象学的研究、特にその固有の“用語”と“事例数や場面数が少ないこと”、それが研究としての一般化や普遍性をどのように担保するのかという指摘が多かったように記憶しています。そのため、現象学的研究の成果の普遍性に関する議論を繰り返し行った時期がありました。他方で、経験や実践の探究は、一人の人の語りや実践に焦点を当てたとしても、それ自体に多様な人々とのやり取りが挟み込まれるため、たとえ一人の経験の語りであっても、「1」という数値で捉えられるものではありません。それを繰り返し解いて理解を求めました。
加えて、現象学固有の存在論と認識論、それを表わす用語が、読み手の理解を難しくしていることにも気づきました。もちろん、それぞれの研究の、専門外からの理解の難しさはありますが、特に、現象学は難しいというイメージが着いているように思いました。それを払拭するのも、私たちの仕事であると考え、一方で、無理に現象学用語を使わず、他方で、現象学用語がなければその事象を言い表すのが難しいのであれば、それが分かるように記述することを課しました。最近は、査読者にも理解されるようになってきたと思います。
しかし、こうした経過を経て、事象に求められる方法を十分に吟味できているのだろうか、という疑問を持つようになりました。査読を通すために、過剰に形式的になってきているのではないか。査読に通ることは重要ですが、論文が、特に方法の記載が形式的になると、それにもとづいた結果=現象学的記述も形式的になりかねません。そうならないよう、事象に即した方法について吟味し続けたいと思います。
現象学的研究は、当の経験者においても、はっきり自覚されていなかったことを開示します。そのため、現象学的記述は、「驚き」をもって受け止められることが期待されます。その驚きを査読者にも、多くの読み手にも経験してもらえることが、一番重要なことだと思います。今後は、こうした視点から、査読の基準を提案してみようと考えているところです。