小山田恭子
錚々たる質的研究の第一人者の方々に引き続いてナラティブを書かせていただくことに畏れ多い気持ちだが、半人前の私が語るものでも、何かしら役に立つことがあるかもしれないと信じて、書かせていただく。
私はナラティブを素材に研究活動を続けてきたが、博士課程の学生時代に研究法の教授から、「いつまで記述を続けるのか?そのデータを医療に役立てる介入研究が必要ではないか。」という趣旨の講義を聞き、すべての道は介入研究につながるべし、という信念を抱いた。この信念は行政職になった時、強化された。ナラティブは人の心を動かすけれど、政策を動かすためには一般化可能な情報が不可欠であることを実感したためである。
この信念のために、質的研究に対して厳しい考えを持つ自分が出来上がっていた。特に自分自身の関心領域である中堅看護師のキャリア発達に関する質的研究に対しては、「なぜこれを今質的に探究する必要があるのか?すでに類似の研究はたくさんある/尺度もあるテーマなのに」と、純粋にクリティークをする以前にかなりの先入見を持ちながら査読していたように思う。大学院の学生指導でも、「もし質的に研究をしたいのならば、その必要性、妥当性についての論理を積み上げて説明できないと計画は認めない。そうでなければ我々の研究は看護の発展に貢献できないと思う。」と宣言し、質的研究から尺度開発に研究を変更した学生もいた。
そんな時、とある査読で、この自分の先入見の愚かさに気づかされる経験をした。論文のタイトルからそれが新人看護師の入職初期の経験をある質的研究手法で記述した研究であることが分かった。私は脊髄反射的に「なぜこのテーマでいまさら質的研究??」と考え、いったい何が明らかになったのか?とややシニカルな視点から論文を読み始めた。記述された現象自体は必ずしも初出のものではなかったと思う。しかし、そのデータのリッチさ、抽出した概念やストーリーのビビッドさに感動した。そして、先行研究を踏まえて現象に新たな光が当てられ、新人の支援に役立つ具体的な知見が示されたことは疑いようもなかった。
この論文は修士論文を投稿したものであった。もし、私が先入見に埋没しておらず、そして優れた研究指導の力があれば、私の修了生も、もっと好きな形で研究ができ、もっと満足のいく、そして知の積み上げに貢献する論文が書けたかもしれない、と幾ばくかの後悔とともに空を仰ぎ見た経験であった。
現在、相変わらず博士課程の学生には同じような論拠の積み上げを要求しているが、修士課程の学生にはもっと自由に研究手法を選択できるよう指導方針を変更している。そして、査読においても、自分の偏った価値観、思い込みを払拭できるよう「すべての研究は尊い。読ませてくださり、ありがとう」とつぶやいてから論文に向き合うことを心掛けている。